アズミ・ハルコは行方不明

 

ネタバレを含むので御了承下さい

 

 タイトルについて

まず、「アズミ・ハルコは行方不明」というタイトルについて考察したい。

アズミ・ハルコとカタカナで表されているが、「安曇春子」という漢字で表記していないところに、単純ながらも本作のテーマへの糸口が潜んでいる。

本作のタイトルを仮に「安曇春子(実名)は行方不明」とすると、ある女性が行方であるというその事実を伝えているだけの表題となるが、「アズミ・ハルコ」と表記することで、実像にも虚像にも偶像にも、自分及び誰かの置き換えにも成り得ることを示しているのである。

安曇春子とは、家庭(実家)、恋愛(未婚)、仕事など埒が明かない暮らしから抜け出せない28歳。20歳前後を若者と定義するならば、28歳は平然と大人である。郊外で暮らす失敗した大人の典型として描かれている。同級生との「28歳ってどうよ?」と溜息混じりの会話は印象深い。

この安曇春子が、グラフィックアート(落書き)により、偶像及び虚像として、行方不明のアズミ・ハルコとして世に飛んでいく。死にたい、消えてしまいたいと思っている若い女性のメタファとして、アズミ・ハルコは増殖していく。皆、生き方について、将来について、行方不明なのである。

 

現代情報取扱批評及び世代差

グラフィックアートとしてのアズミ・ハルコの出所を、映画を見ている我々は彼ら(キルロイ)が描いていると知っているが、作中の人々は当然知らないわけである。行方不明者を扱ったグラフィックアートとして、インターネットでは拡散され、メディアや警察までもが取り扱う事態に発展する。無論アズミ・ハルコに対してインターネット上で飛び交う憶測は全て的を得(射)ていないわけであるが。

この構図は、現代に対してのシニカルを多分に含んでいる。誰かが発信した何かに対して根拠のない情報が砂鉄の様に勝手にくっ付くことがある。例えば、廃ホテルが心霊スポットになり、2階奥のトイレで女性が自殺したらしく、あそこはガチで危険、やばい、などの噂が付きまとうなど。

遊びで発信した嘘の情報でも、誰かが信じてしまえばその誰かの中では本当である。遊びで発信した嘘の情報でも、ある程度の説得力(1万RTとか)を帯びればもはや事実と成り得る。そんなことが起きている時代だということを認識されられる。

加えて、とある母親がアズミ・ハルコを携帯電話の待ち受けに設定していて、その息子に「待ち受けにしていると願いが叶うんだって」と見せるシーンは見るに耐えない。

まだ信じているのか、親の世代って、と疑いたくなる。恐らくだが、本作が刺さる歳の人は覚えがあると思うのだ。待ち受けにすると願いが叶う、恋愛が成就するという不毛な祈りや、不幸の手紙のような劣悪な呪いなど。若者がとっくに目を覚ましたものに、意外と大人の方が今も目が眩んでいたりする。

そういった呪術がギリギリまかり通っていた時代を経て、我々はどんどんリテラシーを養う。散々踊らされた情報や大人、社会に対して信用も希望も持たなくなっていくのだ。退屈で何も起きない、郊外の暮らしに飽き飽きしている、そんな鬱屈とした舞台を生きる若者を如実に描くことに成功している作品ではないか。

 ラブホテルが何度か出てくるが、毎度同じなのも救いようのない閉塞感がとても出ている。

 

 光の用意 

 女子高生ギャング団(名前合ってますかね)について。

女子高生ギャング団からの「一緒に来る?」に対して、安曇春子が「女子高生じゃないし」と断る一方で、ラスト付近の警察の包囲を女子高生が掻い潜るフィクション性の強いシーンでは制服を着た年を召した女性も集団に加わっている。ゆえに、女子高生ギャング団が男性社会を破壊する様をどこかで理想視しながらも、変えられない現実を受け入れている現代女性のメタファーとして、女子高生ギャング団が位置づけられていると考える。アズミ・ハルコ同様に、実像であり虚像であり、偶像であり置き換えである。

そして、女子高生という社会的に不安定な生き物が、男達を痛快に殴っていく様を記録するというのは大きなブレイクスルーとなるような気がしている。安曇春子が勤める会社の下らない男のような人格が1つでも消えていく未来を、本作は提示しているのではないか。

ところで、本作を女性と社会という関係性のみで語っていいのか、いささか危険性があるように、私には思えてならない。集英社のレンザブローにて、「とくに地方の社会における男性性の濃さや硬直化したシステムに対して、女子がどう救いを持って生きていくか、考えてみたい」と書いていた(とamazonのレビューにあった)ので、主テーマは女性と社会という関係性で誤りはないと思うのだが、地方社会という切り口で見ていくと、若い男性と地方社会というテーマで本作を見ることもできるのではないかと私は考える。

 

何かでかいこと、やりたい。

そんなことを思っていると、グラフィックアートに出会う。世界を動かしたような疑似体験、「俺たちはやばい」という感覚、錯覚。希望もないような世界に、どんどんキルロイの作品が増えていく。

(余談だが、作中にてキルロイ以外の落書きも多く見られることからも、落書きがある景色が日常となっていて、愛菜の「落書きって犯罪なの?」に繋がる。世間の常識と、ある地域での常識とのギャップを示していると考えられる。)

この時に決定的に学の方がセンスがあることにユキオは気付いている。学自身は、ユキオの男らしさや、いわゆる「イケてる感」に惹かれている。「もう一度キルロイ再開だな」とユキオに言われた時の、学の表情から読み取ることができると思う。一度裏切られたのに、握手を求められると応じてしまう。男社会の繊細さが描かれている絶妙な2人に思える。

ユキオ自身、大学へ出たはいいが、結局地元に帰り現場仕事をしているわけで。前科が付くのを気にしているところも、うまくできている。したいこともないし、希望もあるわけではないと思うが、「前科はやばい」という理性的な判断は当然できてしまう。家庭を鑑みると、どうしたって人生を捨てるようなことまではぎりぎりできないことが、男として少し泣ける。

対照的なのが愛菜の浅い部分である。なんとなくキャバクラで働き、ユキオがいれば生きていけるし、ユキオがいなければ死ねる、人生を捨てることが単純にできてしまうのだ(深みのある部分があることは前提)。

ひょんなことから、学がアーティストとして抜擢され、ユキオも加わり華々しいキルロイの再開かと思いきや、誰も来場者のない夢ランドに二人は取り残され、社会に対して大人に対して叫ぶのである。どうせ何も変えられない、明日からの現場仕事へ戻るだけ、男の理想と現実、挫折がここで描かれている。大人に搾取されている、救えない地方の若者が描かれている。

安曇春子の会社の上司のようなクズの部分だけを描いているのであれば、女性と社会の一点突破でいいのだろうけど、僕はそうはいかないと思うのです。

 

そして、キルロイの華々しい広告を見て、憤慨して夢ランドを破壊する愛菜なわけだが、双方が見る現実の対比は、えぐい。夢ランドの失敗に落胆する男と、成功に憤慨する女との溝、どうしようもない。

自身の努力で獲得したネイルを剥がし、酒の缶を開けようとするシーン等を経て(愛菜の深みの部分)、着実な現実との対面を果たす愛菜、そして「優雅に暮らすことが最高の復讐」をアズミ・ハルコから受け取る。最後に用意した光である。

 

曽我についても、どこにも行けなかった、閉塞地方社会の産物。情けない男ではあるが、女性の酷を描くためだけの存在として据えるのは物語を軽薄にしかねない。同級生には馬鹿にされ、1人の女を愛し続けていた、取り残された28歳男、どうしようもない。そんな男にすがりついた安曇春子もどうしようもない、どうしようもなかったのだ。

 

 

全ての人物に言えることが、

一度消えればいい、行方不明となればいい、

優雅に暮らすことが最高の復讐

だと言うことだ。

時代、社会、男、大人に搾取されてしまう前に、本作がバイブルにならんことを。

 

 

書ききれなかったテーマを羅列する

・子供の頃、家族と同じ墓に入りたいのに結婚すると入れないことに泣いていたが、大人になると出て行きたくて仕方のない閉鎖生活。

・女子高生ギャング団に、学は襲われるがユキオは襲われない点。クズな男を成敗するという短絡作品ならユキオをヤるべきだと思うので。答えは出てません

・性的アプローチの始点が女性側からであること。安曇春子「セックスでもしますか」や、愛菜「ライン教えて」「人に飢えてっから」「私から連絡しちゃうから」や、成人式でユキオを見てすぐ抱き着くなど。性対象てして搾取される女(会社での先輩と安曇及び新入社員や、同級生(芹那)と安曇とか)と、見てもらえない女の対比なのかな、とか。それで、終盤の安曇春子から曽我への「人妻だったら…」「ちゃんとできるから…(曖昧)」の台詞に繋がるのでしょうかね。

 

 

 

僕はとても好きな映画でした。

あと言わせてほしいんですが、リアリティとか倫理とか、大事だと思うけど、そこに囚われて本旨に迫ろうとせず、批評するのやめませんかね。

言い訳ではないけど、書ききれなかったことが幾つもある。記憶があるうちに誰かと話したいので、どなたか話しましょう。

読んでいただきありがとうございました。