ビニールハウスに隠されし、伊豆の国の楽園への潜入記

毎日生きているわけだけど、思っている以上に変だなと思うこともあれば、何も起きない只の時の経過だなと思うこともある。言い換えると、バランスが取れているんかな、これはこれで。

閑話休題

2018.4.3のことですが、静岡県伊豆の国市に、ビニールハウスの中でこっそりと楽し気に営まれる不思議空間があったので記録しておきます。

名を、「オーキッドスギヤマ」という。

 

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花・カフェ・雑貨、なんだ??

沼津を越え、下田へ行ってみようと思い、車を走らせていると怪し気な看板を目撃してしまった。不安はあったものの、真相を確かめたい好奇心が勝ってしまった。

数台停まっている車の横に行儀よく仲間入り駐車し、車を降りて深呼吸を決め込んでいると、楽し気なお母さん方の会話がビニールハウスから漏れて聞こえて来た。どうやらご近所のママ達の憩いの場なのかも。僕みたいな23歳、お呼びでないかもしれないけど、まあいいや。「こんにちは」と来店、ん、来ハウスか。

驚かれたのも束の間、「どうぞどうぞ」「若い人が珍しいねえ」から始まる、ホットなコミュニケーション、世代と地域を越える軟式キャッチボールを嗜み、来ハウスしてしばらくすると、当初の不安の一切が拭い取られていた。なんだここ、限りなく野晒しな、ビニールに隠れた楽園じゃないか。

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大体の商品は、近所の持ち寄りとのこと。

内内で回る経済、地産地消オルタナティブ。たまに僕みたいな刺客が伊豆の国から外の国へ持ち出すわけだ。“伊豆の国から持ち出す”って、ちょっとかっこいい。

後に来ハウスされたお母さま方2人も交えて、ぽかぽかとした会話が広がる、晴れた日のピクニックシートのようにふわりと。イタドリの煮物をおすそ分けしてもらったのだけど、とっても美味しかった。その辺に生えてるらしい。

 僕は、急須のような置物と靴と鞄を購入した。

 

お仕事に一区切りを付けた御主人が僕のところに来てくれた。どうやら夫婦経営のようです。

敷地内と周辺を散歩がてら案内していただき、多肉植物の制作過程や自作の木造の椅子を見せていただいた。

「ここから見る夕陽が綺麗で、天気が良ければ赤富士が見えるんだ。」

「ここらの田んぼ、昔はレンゲの花が咲いていたんだけど、今はもうなくなっちゃったね。レンゲを肥料にするといいんだけどね(農作業の機械化、効率化、大量生産により難しくなったようです)。」

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この地で生きてきた、生きてこなければ話すことができない、確かな歴史を聞く。夕陽が伊豆箱根鉄道駿豆線の先にある山を越えて、沈んでいく。さっきまで知らなかった人と伊豆の落陽による刹那的な寂しさを共有し、オーキッド杉山ビニールハウス内へと帰巣。

生の珈琲豆を煎り、淹れてくれる雑味がない珈琲を御馳走になる、ありがたい。他愛もない話をする、僕のこれからを案じてくれる。珈琲がなくなると、さようならなんだ。

 

置物と靴と小さな鞄と大事な記憶と、車中で食べなと一掴みの飴達と、いろいろ手に入れていた。また来ますを伝えて、気を付けてねをいただいて。

 

帰る前にトイレをお借りしようと尋ねると、「女性用しかないのよ、男はその辺で」

がはははは ~終り~

 

オーキッドスギヤマ

〒410-2122

静岡県伊豆の国市寺家334−1

 

以上です。よんでいただきありがとうございました。

以下、僕の話と、写真達です。

 

 

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welcomeを鵜呑みにして良かった

 

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手作りペインティングトイレット

 

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御主人お手製のビー玉埋め込みウッドチェアー

 

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夕陽が差し込む、お気に入りスポット

 

 

ごほん。

幼い頃、ブロックを使ってオリジナルのモンスターを作るのが好きでした。図工は苦手だったけど。幼くして気づいた芸術感覚の欠落、だとしても興味はあったのだと思います。レインボーアートのCMには毎回心を躍らせた、そんな少年時代でしたから。

芸術センスの欠落を幼くして感じていたからか、DIY感を好むようになりました。もちろん芸術について諦めたわけじゃないし、印象派とか抽象画とか油絵とか水彩とか浅い知識は付けているわけだけど。

ただまあ、完成した対象Aの芸術的価値の正しい認識は、他の誰かに任せて、対象DIYのユニークさを僕は愛でようかしらと、ね。

 

いつだって地球のどこかで多分おもしろいことが起きている。実際はおもしろくないことが概ねを支配しているのだろうけど、意外と丁度いいバランスなのかもしれない。何か劇的な変化が起こるまでは。

ただ、おもしろいことが起きたところで、会えなければ無意味なんだよな、な。