不義理な日々が過ぎる

 

居たい場所に居たいだけ、したいことをしたいだけ、叶えたいものを叶えたいだけなど。そうして何かを成し遂げても、返って来る結果に納得できることなんて殆ど有り得ないと思えてしまう。

自分で言っていて何なのだが、このように思えてしまう内は、何をしたってどうしたって、どうしようもないのだろう。

 

踏ん切りをどこに付けるか、皆さんは如何でしょうか。こちらは耳を揃えて終末へ年貢を納めようとしているのですが、準備が中々進みません、延命のような減命の日々です。

馬の耳に念仏も、死者に念仏も同義語だとか。肝心なのは煩い人が許してくれるかどうかっぽい。精神は誰にも見えない

 

評価を気にする人と、気にしない人がいる。優劣は無い。前者と後者にそれぞれの薬があるという話。仕事の出来不出来も凡そ相性ではないのか。もう少し細かく言うと、痛みの閾値の問題である。

Aへの感度が良い人も居れば、Bへの感度が良い人もいる。別にさ、積極的な「合う」以外にも、否定的かつ戦略的な「合う」もあるという訳で。そんな当然を時々見失ってしまう。

 

いろいろ高望みなんてしていないと思っているが、高望みなのかもしれない